母の命を医師から守った日。 [医療過誤]
ーーー★ 脳血流を良くして免疫力を高めましょう ★ーーー
“転院したほうが、いいですよ!” 看護婦さんのアドバイス?? [医療過誤]
母が入院したその夕方、父の入院中何度か話した看護婦さんと廊下であった。
>お母さんはどうですか?
>なんか、脳梗塞の疑いということなんですが?
>転院したほうがいいですよ・・・ (小声で)
>え、え・・・ (@_@;) で、出来るわけ無いでしょう。(でも、ありがとう)
相談の続きです。
>たとえ入院したとき血糖値47と出ていたとしても、低血糖状態の症状はあったんですか?
>えっ、症状はいろいろあるし、これがあったら低血糖なんて症状無いと思うんですが・・・
>低血糖の症状が出てないのに、低血糖と証明できないでしょう・・・
>え、え~っ。だ、だって、血糖値47って低血糖状態では、な、ないんですか・・・??????
そして弁護士さんが言った。
>本当に低血糖だったら、典型的な症状の“痙 攣”が出たはずです。
お母さんが全体的に弱った感じで、手足に力が入らず、立ち上がれない。
問いかけには答える。そこから察するに、脳梗塞だったんじゃないですか?
>脳梗塞があったかどうかはわかりませんが、血糖値47って低血糖状態だと思うのですが・・・
(症状で病名を決めていいんかい、47という数値は低血糖だろうがおい!なに考えてんじゃい?言葉にできるわけありません)
「痙攣が無いと低血糖では無い、必ず痙攣が起きる」これでづっと押し切られてしまいました。医療過誤を扱う専門家の先生に????
相談の始めにこう聞かされた私の、大脳前頭前野の脳細胞は、それこそ痙 攣してしまったようです。
昨日のボクシングの、内山の右ストレート1発。相手はダウン、KO負け。
いい試合でした。
それではボクシングが大好きな、母に報告してきます。
「相談に行かなければよかったね。」そう言う方もいました。
でも、行って良かったと思っています。自分の気持ちの整理ができました。
この件を法によって解決することは、止めました。理由はいくつかありますが、なんと言っても多額の費用と、長い時間に耐える、精神力は今の私にはありません。そう、金もありません。
土曜の夕方、もうヤメタと思ったとき、「やるだけやった」と思えました。肩の荷が下りた感じがしました。
この空のように、とまではいきませんが、気が晴れました。
そして、日はまた昇るでしょう・・・
<あの時は危機一髪(間一髪)だった> 婦長さんが言いました。 [医療過誤]
婦長IYさんは知っていました、母が危ないということを。
2004年8月7日土曜日昼頃、母は救急車で病院に搬送されました。
脳梗塞の疑いで、血液をサラサラにする点滴の治療が始まりました。
三日後の9日(月) 母は揺さぶっても、内肩を摘んでも反応しない状態になりました。体温38度。夜中から熱が出ていました。
昼頃には体温38.5度に上がりました。様子はさらに悪くなっているように見えました。
おかしい? 危ない!と思いました。
午後4時頃、脳外科から内科に移り、血糖値を計ると55でした。ブドウ糖が投与されました。
体温を下げるため、頭部、腋の下、そ頚部が冷やされました。
プーッと膨らんで見えた母の顔が、元の戻ってきました。
ああ~、助かった。
10日に知ったのですが、入院時の母の血糖値は47でした。三日間低血糖状態だったのです。
婦長さんの言った危機一髪(間一髪)は、この事だと思いました。
通常、一般常識として、誰が考えても、ここで血糖値を上げる治療をしますよね。
読んでくださっている皆さん。内科に移る前の三日間に、何をすべきだったと思いますか?
・ブドウ糖を注射するとか、血糖値を上げる処置をすべきだった、と私は思います。
<え~そんなこと病院であってイイの・完璧なミスでしょ・信じられない・あの病院に行ったら生きて帰れないって言われてるから・素人でもわかるべによ・お母さんを助けたね・よく医者に言えたね~、知識が無いとなかなかわかんね~かんな・そんな~ありえないし、あっちゃいけないわ・・・・・。>
今までに普通の人。看護師さんや介護職の方のように、身体についての知識のある方。たくさん意見を聞きましたが、皆さん同じような考えをお持ちでした。
ところが...です。土曜日はじめて、別の意見を聞きました。
>たとえ入院したとき血糖値47と出ていたとしても、低血糖状態の症状はあったんですか?
>えっ、症状はいろいろあるし、これがあったら低血糖なんて症状無いと思うんですが・・・
>低血糖の症状が出てないのに、低血糖と証明できないでしょう・・・
>え、え~っ。だ、だって、血糖値47って低血糖状態では、な、ないんですか・・・??????
こんな感じで、相談が始まったのでした。
私は1ラウンドに、カウンターストレートを食らった、ボクサーのようでした。
その後、脳の思考回路が回復しないまま帰宅しました。
まだダメージが残っていますが、やっと今日あたりから、何が起きたのかを、考えられるようになりました。
埼玉医療問題弁護団から、連絡がキター・・・ [医療過誤]
埼玉医療問題弁護団とは
埼玉医療問題弁護団は,医療事故被害者の救済と医療制度の改善のために,患者さんの代理人として医療過誤事件に取り組む,主に埼玉弁護士会に所属する弁護士によって結成されたグループです。
当弁護団は,医療ミスに苦しむ患者さんのために,月1回の相談会を開催しています。
昨夜連絡があり、月1回の相談会にキャンセルが出たの連絡が来ました。
即、ハイ行きます。 先月に申し込んだとき、2ヶ月待ちと聞いていたのです。
2004年8月7日、母は救急車で隣町の総合病院に搬送されました。診断は「脳梗塞の疑い」でした。
しかし、母は低血糖発作を起こしていたのです。四日後に知ったのですが、入院時の血糖値は47でした。
8月7日昼頃入院し、9日夕方までブドウ糖は投与されず、脳梗塞の治療が続きました。低血糖状態を放置すれば、昏睡から死に至です。
死に至る手前で、私が医師から母の命を護りました。(こう書いているだけで、涙が出てくる。情けない。何故人の命を護る病院で、私が母の命を護ることになったんだって・・・)
その上、担当だった脳外科医は母や私の前でこう言いました「お~、ば~さん死んだふりしてんのか?」と。
この精神に異常がある医師はどうでもいい。しかし、あの体制のままずっと来ている、病院には黙っていられない。
約6年間ずっとこの事を、背中にしょってきた。母の介護でそちらにまわすエネルギーが無かった。
今その時が、来るべくして来たのでしょう。
施設の事故の前に解決するのが、順番では先ですからね!
詳しくは、マイカテゴリーの「医療過誤」を読んでやってください。
まだまだ、ほんとに大変な日々が続きます。
粘り強くやってきました・・・ ちーさん(木島知草さん)
やさしさの種子飛ばしつづけたい・・・ 弁護団なんてすぐ裁判と連想しないで下さいね。
おかしい事を、おかしいと言っているだけです。
おかしい所を改善して、良い病院になってもらいたいのです。今の病院は近く閉鎖され、隣の市に移転します。
地域の機関病院になる大きな病院です。建物が新たになっても、体制が変わらなくては???
患者にやさしい病院になって貰うための、種を撒きたいのです。
ち~さんこと、木島知草さんと初めて会ったのは、、自分はゲイでHIVに感染していると、カミングアウトされた平田 豊さんの、メモリアルキルトを作る(縫う)会場でした。
メモリアルキルトは、亡くなった人のために作るものですが、ご本人が生きているとき作りました。
主催したのは、「うんどうぐつ」というボランティアグループでした。
あれから随分時が経ちました。
つくづく、みんなつながっているんだな。と思っています。
母は今日入浴しましたが、熱は出ませんでした。まあまあかな、という感じです。
医療過誤 [医療過誤]
今朝の母の体温37.3度。昨日の疲れが出たのでしょうか。朝食前と朝食後に治療をすると、36.4度まで下がりました。
これで夕方熱が出ていなければ、大丈夫でしょう。
施設での事故に着手する前に、やり残している事を、はっきりさせなければなりません。
6年近く過ぎているので、相談メールを送り教えていただくことにしました。
2004年8月7日午後12時頃、母が救急車にて入院。脳外科にて三日間、脳梗塞の疑いのまま治療を受けました。
9日に内科に科を変えました。血糖値を測定すると55前後でした。
10日に副院長が母の入院時の検査データを示し「母がこうなったのは、入院時の血糖値48が原因ですね」と説明されました。
低血糖発作だったのです。医師は低血糖状態を三日間放置し、脳梗塞の疑いの治療をしたのです。また、婦長も低血糖発作であることを知っていました。
債務不履行、不法行為に該当しますでしょうか。該当する場合は時効になっていますか。
2004年9月に副院長に対して、病院の行った治療に関して文書にて質問をしたのですが、今だ返答はありません。
また、脳外科の医師が「おお、ばあさん死んだふりしてんのか?」と、ベッドの上の母、私、兄弟の前で言いました。この医師の行為は罪になりますか。
母の介護のため行動できませんでした。
裁判だけは、避けたかった。 [医療過誤]
ベッド・ミドラーで有名な曲です。今日治療に来た、甥っ子が携帯で「いい曲だ~。」と聞いていたので、Y-Tubeをみると、この曲があった。なかなか声がいいと思う。
甥っ子は19歳。昨日会社の忘年会で「飲みすぎた。」が、彼の主訴でした???
もひとつ来た。メール便で、特養の施設長からの「ご報告」で始まる、文書でした。
その中のこう書いてあります。
「施設におきましては、お客様のプライバシーを尊重する意味から、排泄される場合には、介護職は“終わられましたら、お呼びください”とお客様に告げて、ドアを閉めて外に出ております。この間の転落などにつきましては、介護職がその場で瞬間的に防ぐことは出来かねますので。」
大切な家族をこの施設にあずけますか?
All Aboutに載っている、過去の判例です。
あるデイサービスで。
帰りの時間になり、立位にふらつきのある利用者がトイレに行こうとしました。そこで職員が介助に入ろうとしたところ、「プライベートなスペースに入ってほしくない、自分1人で大丈夫」と断られました。
職員は、用を足したらコールしてほしい旨伝えてドアの外に出ましたが、いつまでもコールがないため確認すると、利用者は中で倒れており、大腿骨を骨折していました。これにより利用者は、職員が注意義務を怠ったとして3000万円の損害賠償請求訴訟を起こしたというわけです(研修資料を紛失してしまい、もしかしたら多少違っているかも。ごめんなさい!)。
何人かの方に「判決はどうなったと思いますか?」と質問しました。その中で、原告勝訴。2000万の損害賠償と答えた方が、一人居ましたが。
あなたは、どう判断を下しますか。もし、裁判員裁判の裁判員でしたら?
裁判の判決の多くは、過去の似たような事件の判例をもとに、決められると思います。
・自力歩行はできない。・立ち上がったとき右前方に傾く。とわざわざ、別紙で母の状態を説明したのに、母は右前方に倒れ、骨折しました。「もう立つことは出来ないでしょう。」と医師に告げられました。その夜は、涙とまりませんでした。
すべは、勝手に立った母の責任と、施設長は思っているようです。
こんな言い訳が、この世の中で通用するようでは、戦前、戦中、戦後を生き、平和な日本国を築き、今は老いて、歩けない、認知症になってしまった御老人に申し訳ない。
最も大切なのは、母の人としての尊厳を踏みにじるような行為は、絶対許さない。
介護保険法では、事件を調査することが出来ないと、県の福祉課の方が言っていました。弁護士立会いのもと、現場を調査するしかないそうです。
この件は、民法・刑法の両方で告訴できます。古笛恵子さんの本にそう書いてありました。
私は、法廷でこの件を解決したくないので、今まで必至でいろんな事を調べ、担当者に電話をし、事故について伝えてきました。「みな、それはひどいですね、大変ですね。」と言って、優しい言葉で励ましてくれました。
すべては、特養のそばに住む、姉のためにしてきた事です。このブログで姉と書いたのは、初めてだと思います。
事が大きくなると、姉に迷惑がかかると思い、出来るだけ慎重に、穏便に、事をでかくしないように、姉のため、町のためやってきました。
しかし、今日の施設長の文書を読む限り、それも、もう無理なようです。
TV見ながら書いてます。真央ちゃんがGoodな滑りを見せてくれました。彼女はホント本番に強い。
今年は本当にいろんな経験をしました。
来る年は、法廷を経験するのだろうか?したくありません。むなしいだけです。
裁判はいろんな意味で対決です。勝たなければなりません。
私には知人の参議院議員もいます。彼には貸しがあります。
一度会っただけですが、私の親友の親友である、某新聞社の記者がいます。彼女にとって母の件はとても興味のある内容であると共に、スクープです。
勝つためには、すべての事をします。町はしっちゃか。メッチャかになるでしょう。
そんなことしたくありません。
さて、来る年、やるべき事をやる立場の方のために、被害者側から観た報告書を書かねば。
年賀状は正月に書くか~。
VIPでなくVID 発見 最も重要なドキュメント [医療過誤]
今朝、SMCを出てパーキング~ に向かうとき「今日は何か拾い物をしそうだ!」と感じた。
昼食後、少し昼寝をした。アレを探してみようという気になり、CD、フロッピーディスクにコピーされているであろうモノを探した。
みっ・・・・けた。その一部が こ こ これだ!!!
ババがが入院して脳外科から、内科に転科するまで
入院日:平成16年8月7日(土曜日)午後0時~1時ごろ
入院先:H.H病院
入院の理由:ホームドクターであるS院長が、脳血管の障害の疑いがあると判断をし病院へ連絡した後、次男の私の家から救急車により搬送された。
――7日 午後より――1.救急外来にて処置を受ける。
2.CTを撮る。
3.3階 内科305号室(4人部屋)に入る。
点滴――オキリコン注シリンジ 80g
ヘパリンナトリウムN注 500単位
ザンタック 50mg/2ml/A
* 上記3点を2時間かけてという書き込みが点滴の容器に書いてあった。
* ビタノゲン靜注500g
ラクテック 500ml
この2点は、8月9日までに使われたもので正確な時間は不明。
4.ベッド上の母は、大変激しく両腕・両足を動かした。痙攣のようなものではない。
中略
9日の午後からです。
16.病院に戻る。時間は母が2人部屋に移った後だった。
17.窓際のベッドに母がいた。
・朝より悪化したように見えた。
・呼んでも返事をしない。
・体温は下がっていない。
・点滴にヘパリンが使用されている。
・両肩の内側に内出血のあとができていた。朝は右側が少し変色している程度だったが、あずき色になっていた。・「アワワ...アワワ...」とうわ言を言っている。
※ このままでは、母は死ぬと思った。
18.看護師(女性)に母のことを話すと、スパ婦長を呼んできてくれた。
中略
* 午後4時を過ぎた頃4階内科に転科。419号室は父が亡くなった部屋でした。
以上です。(とてもすべては載せられません。)
母が入院して、三日目に科を変えるまでの事がかなり克明に記されている文書と、病院に対して説明を求めた文書がコピーされているフロッピーが、意外と簡単に見つかりました。これで5年前を思い出してレポートを書く必要がなくなった。
5年も背負ってきた肩の荷がまた下りた。
肩甲間部のコリのような、重みのようなものが楽になった。
今日はめちゃ寒いけど、青空で気持ちがいい。
見れなかったY-tubeが復活。今朝から聞いている曲です。
AMAZING GRACE - Hayley Westenra
医師が母に『バーさん、死んだふりしてんのか?』と言った日 [医療過誤]
本当は怖い低血糖発作 もっと怖いのは・・・(2) [医療過誤]
現代医学は血液検査や画像診断など検査技術が進歩し、医師は多くの情報を患者さんの身体から得ることが出来るようになり、それをもとに治療を進めることができます。
入院4日後に知ったのですが、入院時の血液検査で母のは血糖値47と出ていたのです。
“低血糖発作を起こしている”と数値は示していたわけです。
母の入院二日目は日曜日ということもあり、点滴が続けられていただけで特に治療も検査も無かったように思う。
母の状態は良くはならなかった。血圧はずっと200を超えていた。 血液の凝固を阻止するヘパリンナトリウムという薬剤が点滴の中に入っていたことを覚えている。
しかし、点滴にブドウ糖は入れられていなかった。
本当に怖いのは、低血糖発作を起こしていた母に対して必要な処置がされなかったことです。
この時「このままでは母が危ない。」と危惧していた看護師さんがいたようです。
私は母の入院二日目の出来事をあまり覚えていない。
入院初日と三日目に起きた事があまりにも強烈で、その間の記憶が抜けてしまったようだ。
そして三日目になります。
続きます・・・
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!本当は怖い低血糖発作 もっと怖いのは・・・ [医療過誤]
2004年8月7日土曜日の朝、母は低血糖発作を起こしました。(医師から低血糖発作だったと知らされたのは4日後ですが。)
この10日前に父が亡くなり、その後毎日のように母の治療をしていました。 この日も、朝の9時頃母を迎えに兄の所へ行きました。
母は布団の上で横になっていて、声をかけると返事はします。朝食後元気が無くなり横になったということでした。
車に乗って私の家に行こうと言うと、起きようとするのですが手足に力が入りません。まるで生まれたばかりの子馬が立とうとするが立てないときの状態のようでした。
後頭部を触診して頭の形を確認しまた。脳せき髄液(CSF)の流れが悪くなり頭蓋内にCSFが溜まってくると、後頭部が膨らんでつかめるようになります。
この状態になると脳圧が上がり、脳血管や心臓に負担がかかり脳卒中、心筋梗塞などの発作が起きやすくなるのです。
後頭部は膨らんでいませんでした。脳卒中や心筋梗塞などの発作ではないと思いました。
しかし原因がわからない。父の死や、暑さのため疲れたのか? なんか変だなと思いながらも、母を私の家に運び冷房のきいた部屋に寝かせ治療をしました。
昼近くになっても母の状態が好転しないので、かかりつけの医師に電話をし母の状態を伝えると、脳血管の障害の疑いがあると言うことで父が入院していた総合病院へ連絡してくれ、すぐに行くようにと言われた。
救急車を呼び母を病院に搬送。すぐに血液検査、CTなどの検査が施され、“脳梗塞の疑い”ということで治療が始まりました。(脳梗塞はすぐには画像に出ないこともあるということです。)
その夜、一人の看護師さんと廊下で顔を合わせました。父の入院中話をしたことがある人でした。
「お母さんの具合はどうですか?」
「はい、脳梗塞の疑いということなんですけど。」
「担当の先生は?」
「○×先生です。」
「転院した方がいいですよ!」と小声でアドバイスしてくれた。
昼入院したばっかりで、デ、で、で・・・出来るわけないでしょう。
正直なところ、「転院した方がいいよ。」と言われた時あまり驚きませんでした。父の入院中、担当の脳外科医のあまり良くない話をいくつか聞いていたのです。
夜自宅に帰って父と母がにっこり笑っている写真を手に取り、
この写真です。
「じ~ちゃん、頼むからばあーさんを連れて行かないでくれよー。俺がばあさんのこと幸せにするから。」とひとり家の中でこの写真に向かって叫んでいた。
このとき母が死ぬのではないかと感じていたのだと思います。
実際、この2日後の9日の月曜日、母の命を医師から守ることになってしまったのです。
続きます...
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!